今天看一部網路節目,是有關DV(夫妻間暴力)的特集。
其中,我對支援DV被害者的NPO代表說的話留下很深的印象。
「會做出DV的人,是把對方當成自己的所有物。因為這樣過於期待,對方沒有照自己的想法做時便生氣,施行暴力」
原來如此。除了心有所感,也想到,這件事情不是別人的事。
很理所當然,我們對於親近的人,看作是「我的」妻子、「我的」部下、「我的」後輩。因為這樣,曾幾何時自己的腦中便把這個人塑造成理想的模樣,過度期待,當對方做出不同的言行時,便不滿足,便生氣。
天理教教導「這個世界是神的身驅」。
只有心是自己的東西,除此之外,沒有任何東西是自己的。
遭遇的事情,遇到的人,得到的東西,全部都包含「讓人過康樂生活」的父母神的溫暖父母心。
因此,無必要的事物及相遇,在這世上根本不存在。(所有事物及相遇都是必要的)
還有,天理教也教導如心所現的世界(心通りの世界)。
不是依願望,也不是依據想法,是依據內心。
遭遇的事情,遇到的人,都反映出自己的內心。
辛苦的事,難受的事,討厭的事,難過的事,惱人的事。
當發生這些事情時馬上就指向對方,認為是某某人造成的,但重要的是,指的方向要轉向自己。
把「我的東西」修正為「我的事情」。
一年前,新冠開始蔓延,當活動一個接著一個被迫中止,在此狀況下,我最先感覺到的是「把一直舉辦到現在的事情,轉換為信仰」。
信仰其實是日常的事情,一直把人聚集、企畫活動,時間和勞力被分割,實踐教導反而被放在後面去了。我深刻反省。
並不是所有的活動都否定。但是,我深感應該要再一次重返教祖的教導,將日常生活與教導做結合。
父母神賜與生命的每一天,若是什麼事都沒去思考就渡過實在很可惜。
珍惜父母神為了實現康樂生活安排好的事物、人、東西、以及一切,讓父母神因我們的所做所為而微笑。
明天,也一起實現康樂生活!
(原文)
「我がものから我がことに」
今日、あるネット番組を見ていると、DV(夫婦間における暴力)のことについて特集されていた。
その中で、DV被害者を支援するNPOの代表の言葉が心に残った。
「DVをする人は、その相手を自分の所有物だと思っている。だからこそ、期待して甘えるし、自分の思うようにしてくれなかったら腹を立て、暴力を振るう」
なるほど。と感心しつつ、これは決して他人事ではないとも思った。
当然のことながら、僕たちは近しい人にほど、“私の”妻、“私の”部下、”私の”後輩、というように考える。だからこそ、いつの間にか自らの頭の中でその人の理想像を作り上げ、過度な期待をし、相手がそれとは違った言動をしたときに不足したり、腹を立てたりしてしまうのだ。
天理教では、「この世は神のからだ」と教えられる。
心だけが自分のもので、それ以外に我がものは一つも存在しない。
起こってくること、出会う人、あたわるもの、そのすべてに、「陽気ぐらしをさせたい」との神の温かい親心が含まれている。
だからこそ、必要のない物事や出会いはこの世に一切存在しないのである。
また、心通りの世界とも教えられる。
願い通りでもなく、思い通りでもなく、心通り。
起こって来ることや出会う人たちには、自分の心が映っている。
しんどいこと、辛いこと、嫌なこと、悲しいこと、イラっとすること。
そんなことが起こるとすぐに相手に矢印を向けて、誰かのせいにしてしまいがちだけれども、大切なのは、その矢印を自分に向け直すことだ。
”我がもの”から”我がこと”に捉え直すのである。
一年前、コロナが蔓延し始め、行事が軒並み中止せざるを得ない状況になったとき、僕が一番初めに感じたことは、「これまで行事を繰り返すことが信仰することにすり替わっていた」ということだ。
信仰はほんとは日常にあるものなのに、人を集めたり、行事を企画したりすることばかりに時間と労力を割かれ、教えの実践が後回しになっていたと大いに反省した。
全ての行事を否定しているのではない。しかし、もう一度おやさまの教えに立ち返り、日常と教えを結び付けようとするべきときなのだと強く感じたのである。
神様に生かされている毎日を、何も考えずになんとなく過ごしてしまうのはもったいない。
神様が陽気ぐらしをするためにご用意してくださる、物事、人、もの、全てを大事にして、神様ににっこり微笑んでもらえるような姿になっていきたい。
明日も共に陽気ぐらし!
